月刊近代中小企業2016年4月号に執筆しました

●はじめに

 今年のNHK大河ドラマは「真田丸」ですね。充実したスタッフに支えられて視聴率も好調です。

真田人気は現代に限ったことでは無く、家康を打ち負かした英雄として江戸時代から根強いものがありました。本稿では、真田人気の裏側にある「後悔しない決断力」について分析してみます。真田一族の生き方からは、現代の私達に必要な「しなやかな心、したたかな行動」を学ぶことが出来ます。なお、真田一族とはどういう人なのかは、最小限度の記述に留めております。

●真田昌幸:第一次上田城の戦い

 真田昌幸は、真田信繁(幸村)の父です。武田信玄に「わが二つの眼(まなこ)」と呼ばれたことがある、優秀な若手企画スタッフでした。

 1582年(天正10年)3月、武田家が滅亡。昌幸は織田家に服従し、滝川一益の配下となります。 6月 本能寺の変。滝川一益は北条勢に敗れ逃亡。甲斐・信濃は、勢力の空白状態に。甲斐を制圧した徳川家康が南信濃へ、上杉氏は北信濃へ、北条氏は上野から碓氷峠を越えて東信濃へと侵攻を開始。7月、昌幸、北条家に服従。10月、昌幸、徳川方の工作により 家康に服従。1583年、昌幸、信濃 上田城の築城に着手。 上野・沼田城や吾妻城を巡り、北条氏と争いが続く。

一方、家康は織田家の後継者問題で秀吉と対立し、小牧長久手の合戦にいたる。この際、家康は後方の敵:北条家と和を結び秀吉との徹底抗戦に備える。 講和の代償として、昌幸に無断で真田家の沼田城を北条家に割譲を約束する。1585年4月、家康が甲斐へ着陣して、昌幸に沼田城の北条氏への引き渡しを求めるが、昌幸は徳川氏から与えられた領地ではないことを理由にして拒否。 敵対関係にあった上杉氏と通じる。次男 信繁を人質として送る。7月、浜松に帰還した家康は、昌幸の造反を知る。8月、家康、鳥居元忠、大久保忠世、平岩親吉率いる7000の兵を上田城に派遣。真田勢は、昌幸が500で上田城に、長男信幸が800で砥石城に、一族の矢沢氏が矢沢城に籠城。総勢2000。

閏8月2日、徳川勢、上田城に攻め寄せる。200の真田勢前衛部隊は、すぐに退却。徳川勢は易々と二の丸まで進むが、ここで反撃を受け撃退される。更に後退の際に城方の追撃を受け、戸石城から信幸も横合いから攻めるに及び、ついに壊乱。追撃戦には矢沢勢も加わり、神川で多数の将兵が溺死。この真田勢の地の利を活かした戦法により、徳川勢は1300もの戦死者を出した。一方、真田勢は わずか40の犠牲ですんだ。以後20日間程、上田城での対陣が続く。真田・上杉勢との小競り合いや更なる増援の報に接し、家康は井伊直政と松平康重      に5000の援軍を出すと共に一時撤退を下令。これを受け、徳川勢は8月28日に上田より撤退。その後も、大久保忠世ら諸将は小諸城に留まり 真田勢と小競り合いを繰り返すも、    11月には徳川家譜代の重臣石川数正が豊臣家に出奔する事態に至り、完全撤退。      真田昌幸、この時39歳。

●真田昌幸の決断

ここで昌幸が取り得た選択肢は、大きく4つあると思います。第一に、本能寺の変後は、北条家臣として生きること(サラリーマンになる)第二に、徳川家康の言うとおり、沼田領を引き渡すこと(下請けになる)第三に、豊臣秀吉にすべてを委ねること(会社を丸ごと売却する)第四に、家康の要求を受け入れないこと。(自らのプライドを賭けて立ち向かう)

ドラマでも、目まぐるしく変化する情勢に翻弄される昌幸の苦悩が描かれていますが、結局は第四の道を選択したのです。

 真田家を守るためなら、どこかの大名に臣従することが確実な方法でした。でも、昌幸はなぜリスクを冒してでも独立大名として生き抜く決断をしたのか?それは、「一人前の大名」として生き抜くことへのこだわり(価値観)があったからです。

 昌幸は、関ヶ原の戦いのときにも上田城に籠り、徳川勢を破っています。この時は西軍が関ヶ原で敗れたために後日やむなく開城して、紀州・九度山に蟄居の身となります。でも、この決断も後悔したとは思えません。この理由は、あとで述べます。

●真田信繁:大坂入城と退去しない決断 

 昌幸の二男 信繁(幸村)は、関ヶ原の戦いから14年後に 大坂冬の陣で大坂城に入城します。そして、「真田丸の戦い」で武名を全国に轟かせます。

 信繁の決断として素晴らしいことは、大坂方に一貫して味方する!という姿勢です。最初は蟄居生活を逃れるために大坂に入城したとも受け取られかねない状況でしたが、真田丸を構築するという着眼、実戦での見事な采配は、敵味方の賞賛を集めます。これで信繁の武名は一気に高まりました。

冬の陣のあとで、家康は信繁を「大名にする」という好条件で誘います。しかし、信繁はきっぱりと断ります。次の戦いでは、堀を埋められて裸城となった大坂城の落城は誰の目にも明らかだったにも関わらず。ここで徳川方に付いても、誰も非難などしなかったことでしょう。

信繁の「価値観」とは。大名という地位や経済的利益はもとより 自分の命よりも大切なことは、自分の生き様を後世に残すことだ、ということではないでしょうか。それも一時的に武名を挙げたことで満足するのでなく、一貫して大坂方に味方することで生き様を不動のものとする固い意志を見て取ることが出来ます。事実、夏の陣で信繁が討ち取られる時には、人生を生き切った満足感をもって首を差し出したと言われています。

●真田信之:徳川に一貫して味方する決断

 真田昌幸の長男で、信繁には兄にあたる信之。

この人の決断と行動も、自分の価値観に従った一貫性を持った生き方です。

 関ヶ原の戦いの直前の7月21日、下野の犬伏というところで真田父子3人は身の振り方を話し合いました。徳川家康が会津の上杉景勝討伐に向かって進軍中であり、真田一族も部隊を率いて信濃・上野から下野へと進んでいたのです。

 長男・信幸は東軍に付き、そのまま軍を進めました。昌幸と次男・信繁は西軍に付くことを決断し、信州・上田へと引き返します。その後、下野・小山で東軍の軍議が行われ、信幸は徳川秀忠率いる第二軍の一員として、中山道から上田城攻略に向かうことになりました。

 表面的にみると、東西どちらが勝っても真田家が生き残るように東西に分かれた、ということも考えられます。でも、その後の3人の生き方を追うと、損得勘定や生き残りだけでは無い、自分の生き方に後悔の無い決断をしたことがわかります。

 具体的には、どういう決断だったのか。

昌幸・・・西軍を勝たせる軍略を発揮する、真田家を大きくする

信幸・・・天下に太平をもたらすのは、徳川家康を置いて他にはいない!

信繁・・・父を支える、自分の武将としての能力を最大限に発揮する

 結果だけ見れば、東軍に味方して生き延びることが「正解」だったかもしれません。でも、その「正解」は、幕府による「大名いじめ」とも言えるような普請の出費、国替え、結婚や行動の束縛を耐えることが要求されました。それでも信之は「太平の世を築く」という目的のために、そして自ら父から譲り受けた「幸」の捨て、信之と改名し父の葬儀が許可されないなどの仕打ちに耐えたのです。その後は上田城を領するも城には入れずに館で政務をとる、信濃・松代に国替えになる、孫たちの家督相続争いに幕府が介入する、91歳になっても四代将軍徳川家綱の指南役を務める、藩主の後見役を務めるなどの心労を重ねました。

●関ヶ原の決断を生涯後悔し続けた福島正則 

 真田一族とは対照的な例として、福島正則を考えてみたいと思います。

この武将は、関ヶ原の戦いで東軍に味方したことを、一生後悔し続けました。挙句の果てに、改易されて 不遇なままに生涯を閉じることとなりました。

 福島正則は、永禄4年(1561年)、尾張で生まれました。豊臣秀吉とは母方の親類にあたるため、少年期から秀吉の数少ない子飼いとして活躍。本能寺の変のあとは、柴田勝家との賤ヶ岳の戦いで功名を挙げ、一気に5千石取りへと出世しました。その後も功名を上げ続け、尾張・清州24万石の大名となりました。

 秀吉子飼いの大名たちは、おね(北政所)と頂点とする尾張・武断派と、茶々(淀殿)を頂点とする近江・文治派との対立が、朝鮮の役の頃から表面化しつつありました。慶長3年(1598年)に秀吉が亡くなると、対立は一気に火を噴きます。福島正則ら七将が、石田三成を襲撃するという事件を引き起こしたのです。この時は、徳川家康が仲裁することで一旦は収まりましたが、対立の火種は依然くすぶり続けたままでした。

 慶長5年(1600年)5月、関ヶ原の戦いの導火線となる会津・上杉景勝討伐

の軍が編成されます。徳川家康を総大将に、福島正則も従軍します。ところが、7月に石田三成が上方で挙兵したという報せが入り、家康は下野・小山で軍議を開きます。

 このまま家康の東軍に付いて、石田三成の西軍と戦うか。それとも、三成に味方して家康と戦うか。どの大名も、大きな決断を迫られました。この時の正則は、積極的に家康を支持しました。「この戦いは、豊臣対徳川の戦いでは無い。豊臣家を私しようとする石田三成を討つ

のが目的だ。」家康の言葉を信じ、三成憎しの感情が燃えたぎる正則は、軍議の場でいち早く家康に味方することを表明しただけでなく、東軍の先陣として岐阜城を陥落させ、関ヶ原の

当日も、第一線に立って奮戦しました。その結果、安芸・広島49万8千石という大幅な加増を獲得したのです。このときの正則は、さぞ得意の絶頂感を味わっていたことでしょう。自分の決断に、間違いはなかったのだと。

 ところが、その後慶長8年に家康は征夷大将軍に任じられて幕府を開きます。2年後には、将軍職を息子・秀忠に譲り、自らが天下人としての地位を固めてゆき、豊臣家はだんだんと追い詰められてゆくのです。

 正則にしてみれば、自分が東軍に味方したのは徳川家に天下を取らせるつもりは全くなかった、ということでしょう。このあたりから、正則は激しく後悔し始めます。幕府からの城普請の手伝い要請があまりにも多くて、財政が苦しいと。幼馴染の加藤清正に愚痴をこぼしてたしなめられる、ということもありました。

 挙句の果てには、慶長20年の大坂夏の陣で、豊臣家は滅亡します。幕府は、正則が豊臣方に付くのを警戒して、江戸詰めを命じます。その一方で、福島家では豊臣方に兵糧を隠れて提供したり、福島家の家臣たちが大坂城に入ろうとして徳川方に打ち取られる、という事件もありました。正則の「せめてもの抵抗」だったのかもしれません。

 家康死後まもなくの元和3年(1619年)、広島を台風が襲います。この水害で広島城が損壊、正則は修理することを幕府に届け出ます。ところが、この届けを巡って幕府が「些細なケチ」を付け、城を無断で修理したのは武家諸法度に違反するということで、正則は広島を改易されます。信濃・川中島4万5千石に減転封され、その後はその所領も没収。福島家は3千石の旗本としてなんとか存続を許されました。

 関ヶ原の戦いは、福島正則が東軍の先頭に立って戦い、勝利をもたらした功績が大

でありました。でもその決断は、徳川家のもとで天下を安定させることや、豊臣家のためには家康と三成のどちらの言い分が適切なのかを判断したとは到底思えません。三成憎し!の感情が先走っての決断でした。

 たとえ大出世したとしても、自分が何よりも大切に考えていた豊臣家が滅んでしまっては、正則にとっては全く意味がありません。自分は、本当のところは何を一番大切だと考えているのか?この問いのきちんと向き合えなかったからこその悲劇を、正則に見るのです。

●まとめ

ビジネスや人生においてお金や名誉はとても大切です。そのためにに大きな努力を払っていらっしゃることでしょう。

でも本当の満足感は、表面的な「成功」では得られないということを、福島正則の例に見ることが出来ます。逆に、「失敗」と思われることでも、自分の価値観に従って決断し、きちんと準備した結果であれば静かに受け入れることができるということを、真田一族の例に見ることが出来ます。

 後悔しない人生を送るには、自分自身の「価値観」を明確にすることが第一歩です。「価値観」は、人生の目的・目標を達成するための基盤なのです。

では、どのようにして「価値観」を知ることが出来るのか?

私は「7つの質問」で、あなたの価値観を明らかにいたします。その結果、後悔しない人生を過ごすための決断力を高めることができるようになります。

 現代は「40代の危機」とも言えるほど、仕事でプライベートで決めなければいけないことをたくさん抱えているビジネスパーソンがたくさんいらっしゃいます。ぜひ、自分自身の「価値観」を深く考えてみることで、「後悔しない仕事・人生」につなげていただきたいと思います。